先日、浜松市天竜区佐久間町城西にある鉄橋「渡らずの橋」の事を書きましたが、ふと思い出したことがあったのでそのことを・・・
飯田線はその昔、今の水窪の街中を通っていませんでした。
昭和30年11月、佐久間ダムの建設によってダムに沈む路線の代替ルートとして現在のコースになったのです。「渡らずの橋」もその代替ルート建設の過程でやむなく作られた橋です。
ここで紹介する写真はその代替ルートが完成し、水窪駅にてお祝いをしている写真です。
水窪駅に電車到着
水窪駅に入る電車がさすがに古いです
水窪駅に入る列車を祝う人々・・・仮装行列?も?
これはどの辺を撮ったのかわかりません・・・どなたかわかりますか?
この写真を撮ったのはもちろん私ではありません。
私が高校生の時からお世話になっている浜松の手話サークルやまびこ会の「生みの親」とも言える坂本弘さんが撮ったものです。
坂本さんは水窪町出身で国鉄マンとして働く傍ら、自身足の障害を持ちつつ身体障害者の自立を訴え活動された方で、「手話」が「手まね」と言われていた時に耳の不自由な人の役に立とうと、今で言う「手話通訳者」の先駆けになったすごい人です。
残念ながら、坂本さんは平成19年10月に亡くなられてしまいました。
私はちょうど亡くなられる直前に坂本さんのお宅を何度も訪ねる機会をいただき、飯田線が水窪の街へ通ったときのお話を聞きました。当時、初めて通る電車にとにかく乗りたいという町民が殺到し、みんな切符を買うのに「どこでもいいから一枚くれ!」と言い、駅員が「行き先がわからにゃ売れん」と困惑したとのエピソードを聞きました。
若かりし時の坂本弘さん
今年2月、浜松手話サークルやまびこ会では創立40周年を祝うつどいを開きました。
その際、坂本弘さんの手話サークルでの業績を紹介することはできたのですが、国鉄マンとしての坂本さんの一面はほとんど紹介できませんでした。
これらの写真は坂本さんのご遺族のご厚意で、私が手話サークルの後輩であり、「鉄道」も好きとのことで譲っていただいた貴重なものです。
今となっては遅いのですが、もっと早くから「鉄ちゃん」の先輩としての坂本さんから聞いておきたかったことが山ほどあって・・・残念です。
C58 216の前で記念撮影する坂本弘さん